20/09/19 翻訳小説を読む楽しみ

こんにちは。

オースティンの『高慢と偏見』を読んだので感想を書きます。

 

読むきっかけとなった辻村美月の『傲慢と善良』で触れられていたように、恋愛小説というより結婚小説という方がふさわしい内容でした。

 

 

高慢と偏見(上) (光文社古典新訳文庫)
 

 

イギリスの上層中産階級の5人姉妹の次女エリザベスと大地主の青年ダーシーを中心に、いくつもの出来事が絡んでいる構成となっています。理性的で品性のある人たちと、愚かではしたない人たちの対比がはっきりとしていて、前者の方の人たちは大体幸せになるのでエンターテインメントとしても楽しめますし、人生訓も学べるでしょう。

タイトルにもある「高慢」と「偏見」は悪徳ですが、登場人物がこれらに気づき克服していく姿が印象的でした。恋愛の中で、相手のことを考え、謙虚に自分を振り返りながら、自らの過ちに気づき正すことができていたのです。なかなか素直になれないことが多いですが、見習いたいものです。

 

そんなわけで、想像していたより面白く読みやすい小説でした。

 

さて、今回はそこから話を広げて翻訳小説を読むことについて考えてみたいと思います。

日本文学でさえ一生かかっても読み切れないほどあるのに、海外の文学ときたらもう途方もない量あり、どれから読んでいいかもわからなくなりそうです。

また、原著を書かれた元の言語で読んでこそ作品の真の魅力を味わえる、という主張も一定の理は認めなければならないでしょう。

 

ただ、翻訳小説には独自の魅力があると思います。

まず1つ目は、訳者の審書眼を借りられる点です。

訳者がわざわざ骨を折って日本語に訳してでも読んでもらいたい(あるいは、誰かが読んでもらいために翻訳を依頼しているのかもしれませんが)と思ったという事実からだけでも、その作品の面白さがある程度保証されていると言えるでしょう。古典と呼ばれる作品にも当てはまりますが、多くの人々に愛されているほど、大体の場合は面白く読む価値があるものです。

2つ目は、訳者の顔がうっすらと見えることです。

英語を勉強して日本語訳をした経験があれば体験としてわかると思いますが、時として外国語には日本語にはない構文や表現が現れます。「翻訳くさいな」と思わせずに自然な日本語に訳すのが腕の見せ所であり、苦労しただろう部分に出会ったりすると原文を想像したりするのも楽しいです。また、日本語ではなかなか言わない言い回しに出会うとちょっと面白い気分になるものです。時間と気力があれば、複数の訳と原文を突き合わせて違いを楽しむのも楽しいとは思いますが、ハードルは高いですね。

 

他にも、あるとは思いますが今回は2つだけ挙げておきました。海外文学を読むことの楽しみとしては、文化の違いを認識したり、外から見た日本に出会ったり、人間の普遍的な性質に気づいたり、海外の人と話すネタになったりといろいろ挙げられます。

日本のように翻訳が文化として定着しており、母国語で世界中の名作を楽しめるというのは実は贅沢なことでしょう。ただし、文章の意味が分かっていても、後ろにある細かいネタには前提知識などがないと気づきにくいので、適宜解説を読む必要がありちゃんと楽しもうとすると奥が深いです。これからも教養として有名作品ぐらいは読んでみようと思います。

 

ちなみに、作者のオースティンはこの作品を20歳の時には書き上げたというのには驚きました。焦ってもどうしようもありませんが、このままただ老いるのは嫌だなあとそんなことも思いました。