21/07/25 iPadを利用した詩の授業
こんにちは。
先日、タイトルにもある通りiPadを利用した詩の授業をしてきましたので、そちらの感想を残しておきたいと思います。
教材と単元目標
高校1年生に向けて、中原中也の「一つのメルヘン」を取り上げて詩の授業を行いました。
「一つのメルヘン」を初めて読んだ時、私はとても不思議でつかみどころのない詩だと感じました。非現実的な光景が描写され、よく分からないうちに終わっており、どう読んでいいかわかりませんでした。
そもそも詩というものに触れる機会が多くなかったので、どう扱おうか決めかねていましたが、研究室のメンバーと相談し、自分の経験に引き付けて理解するということを目標にすることにしました。
小説や伝記などで人の生き方・言動に触れたときに、「自分だったら…」「自分にもそんなことがあったな~」「自分の興味のある分野で言うと…」と考えることはありますが、それを詩で行うことはしてこなかった上に、情報量が少ないために難しいとも思いましたが、詩の流れを抽象化して捉えるという段階を踏むことで授業で取り組んでみました。
授業の流れ
授業の流れとしては、
①初読の感想・疑問点の共有:直接理解することの難しさを確認
②大まかな話の流れをまとめる
③班ごとの話の流れを総合し、抽象化
④抽象化した詩の流れの構図を、自分の経験に当てはめ、詩の中の事物を捉え直す
という4つの活動に分け、①②を1時間目、③④を2時間目に行いました。
どの活動もGoogle Classroomに概要を書いておき、①はPadlet、②③はGoogleスライド、④はGoogle Classroomの「課題」に限定公開コメントで回答する形にしました。
感想・反省
・詩の授業の難しさ・面白さ
そもそも詩をあまり読まないのに授業できるのかという不安もありましたが、「何を考え、身に付けるべきか」というところを考えるのが一番難しかったです。教科書に載っている以上、編集者は意図をもって選んでいるとは思いますが、詩はテーマが読み取りにくく、生徒にどう伝えていくかも難しいと思いました。その分、いろいろと想像することができるのは面白いところですが、自由に想像していくと元の文を離れてしまうこともありました。生徒の自由な発想は楽しいですが、授業としてやる以上は、自分の考えを言葉で人に説明できるということを意識させ続けなくてはいけないと思いました。ただ、その目的をきちんと伝えておくことと、外れてしまったらきちんと修正することはセットで必要であり、どちらかだけではいけないと感じました。(今回は、事前に授業の目的や方向性を語れなかったので、訂正をためらってしまった)
・時間配分と活動の難易度
50分×2という時間で行える活動だったかという点に関しては、もっと丁寧に時間をかけてやるべきだったと思います。特に、③と④を50分で行うのはかなり難しく、無難に時間をもっと確保するか、③をある程度教師が仕切ることで短い時間で済ませるかのどちらかが必要かと思います。今回は「抽象化」の言葉の説明を行った一方で、活動に入るための練習は取らなかったので、活動自体が伝わり切らず時間が余計にかかってしまった面もありますが、どのみち工夫が必要だったと思いました。
Google スライドを使うと、どこかの班が入力したものを全員が見られるので、いくつかの班が入力を始めるとそれを参考に何となくまとめていくということがあります。活動時間を区切ると、制限時間内にそれとなく仕上げてくることも出来はしたのですが、それを計算に入れて始めから計画するのならまだしも、抜け道を用意しておくのでは、活動をしても学びにならないので効果が薄いです。
自分の力で考える時間をしっかり確保するためにも、時間配分と活動の難易度はよくよく練っていかなくてはいけないと思いました。
・ICT機器の利用について
iPadを用いることで、クラス全体の意見を共有することが非常に簡単にできるし、資料の配布や課題の回収も楽に出来そうな片鱗は見えましたが、熟達度以外のところで課題もわかりました。
利用環境については、高校に全校生徒分のiPadが整備されていないこともあり、授業前にコンピューター室から借り出して、自分のアカウントでログインし、授業後にはログアウトして返却するという手間がかかります。既に1人1台環境になっている中学校では、登校のタイミングで、自分の端末を教室に持ってきて、放課後に返却するだけなので楽でした。来年度からは高校にも十分な台数が配備されるはずなので過渡期だからこその悩みなのだとは思いますが、その手間が来年度への準備やICTの利用そのものへの障壁の1つにはなっていることは間違いないでしょう。
また、突発的なトラブルが起こるのも怖いところでした。使えるはずのアプリがバージョンの関係で使えなかったり、編集権限の設定を間違えていて使えなかったり、(自分のパソコンが固まったり)冷や汗ものでした。トラブルの原因が推測できれば対処できますが、慣れていない先生がいきなり直面したらリスクを避けて今までどおりの方法を選んでもおかしくないと思います。
1つ前の項で、Googleスライドの利用について触れましたが、これは良し悪しどちらもあると思います。別のクラスでは班ごとにホワイトボードに書くという方式でも実施していたのですが、そっちの方が盛り上がっているようにも見えました。1人ずつ端末を持っているので、班の人との話し合いが盛り上がりにくいのかもしれません。操作する端末は班で1つにするなど活動形態も工夫の余地がありそうですが、無理にデジタルでやらなくてもいいこともあるだろうと思います。
・これからの教師の役割
これからの教師の役割は、知識の伝達者よりむしろファシリテーターやコーディネーターだというのはよく言われていることだと思いますが、実際に授業をするとなると後者の方が難しいのがよく分かりました。
事前に教材を研究して、試験に出ると圧力をかけて知識を教えるのは、やろうと思えば(上手下手は措くとして)誰でもできるし、教えている感も出るし、時間も予想が着くのでやりやすい面もあると思います。ただ、本当に身に付けるべきことを精査して、生徒に活動を委ねたり、教室内で生徒の発する様々な言葉や言語外のサインを読み取ってその場で反応して授業を作ったりするのはいきなりはできないことだと感じました。事前に多くのパターンを想定していくことも当然重要ですが、教材内外について広く対応できるように(常日頃から)準備しておいたり、地道に経験を積み重ね省察を繰り返したりしておくことも必要なのでしょう。
専門職としての教職の位置づけは今後どうなるか見通せない部分も大きいです。免許更新制の廃止・「教師のバトン」・少人数学級など、求められていると見られなくもない一方で、少子化に加え、各種映像教材や学習アプリの充実から生身の教師の必要性は下がっているとも言えます。もしかしたら少数精鋭だけが生き残る時代が来るかもしれません。
ただ、子どもに身に付けてほしい資質・能力が複雑化している以上、教師も頑張らなくてはいけないのでしょう。
今回は授業をするので手一杯で、そんなことを考えていたわけではありませんでしたが、様々な面で勉強になりました。