21/01/17 見方について

こんにちは。

前回抱負で書き忘れましたが、今年は漢検を受けてみようかな~と思っています。

2級と準1級を両方受けようかな~なんて考えているので、勉強してみようと思います。どうせやるなら満点合格したいですね(大言壮語)

 

さて、私は現在、個別指導の塾で講師をやっているのですが、昨日はその勤務日でした。

経歴的に理系科目の方が(受験的な意味では)教えやすいのと需要が多いので、数学や英語を教えることが多いです。(国語が塾で習う教科として人気がない話はいつかしたいですが、今日はしません)

昨日、数学Ⅱの「複素数と高次方程式」あたりの分野の、「解と係数の関係」の単元を教えていて面白いことがありました。

 問題は別に大事ではないのですが、書くにあたって例があった方が書きやすいので、大体のところを書いておきます。

2次方程式 2x^2 + 4ax + a+3 = 0 が異なる2つの解を持つとき、以下の問いを答えよ。

(1) 2つの解がともに1より大きいaの範囲を求めよ。

(2) 2つの解がともに1より小さいaの範囲を求めよ。

(3) 解のうち1つは1より小さく、もう1つは1より大きいaの範囲を求めよ。

なんてことはない問題です。数学Ⅰの2次関数の解の配置でやるような問題ですから、判別式、軸、境界の条件をそれぞれ求めて共通部分を取れば終了です。

ですから、初めは2次関数を復習しながら解説をしていました。

ただ、平方完成をするのを待つ間に、どうしてこの問題を改めて数Ⅱのこの単元でやるのか考えてみると別の解法が浮かんできました。

解答

与方程式の解をα、β(α<β)とする。

解と係数の関係より、α+β = 2a、 αβ = (a+3)/2

与方程式の判別式から、異なる2つの実数解を持つ条件は、a < -1,  3/2 < a

(1)α>1、β>1より

α+β > 2 

したがって 2a > 2 ∴ a > 1

また、α-1 > 0、β-1 > 0より

(α-1)(β-1) > 0

展開して代入して計算すると、 a < 5/3 よって 3/2 < a < 5/3

(2)(3)略

ポイントは (α-1)(β-1)の符号を考えることですが、別にどうでもよいです。

この解法で方程式を眺めると、2次関数のグラフのイメージはほぼ出てきません。(判別式で2次不等式を解く時に使うかも)純粋に数式を操作するだけで条件が求まります。

今までただの方程式から飛び出して、放物線とx軸の交わり方を考えることで問題を解いていたものが全く姿を変えたのです。(本来は式→グラフであることを考えれば、おかしな順序のような感じがしますが)

与えられてきた環境を考えれば、このような見方を示された、教えられたことはなかったはずはないのですが、定着せず1つの見方しかしてきませんでした。

複素数平面においては、ある複素数は、数でありながら、点であり、ベクトルであり、拡大回転を表すこともあります。この話を聞いたときはとてもワクワクして面白いと思ったのですが、数学はそのようにある1つの現象を様々な見方から捉え直すことができるところが魅力の1つと言えるかもしれません。

(有名作品ですが、東野圭吾容疑者xの献身」でも見方を変えるという話が出てきます。)

 

ちなみに、今回の気付きの面白いところは(自分で言っては世話ないですが)、この解と係数の関係を利用した解法は一見エレガントに見えて、実は解の配置に帰着させて解く方法に劣るという点にあります。(3)が少し変わって、「一方の解は0より小さく、もう一方の解は1より大きい」のように、境界となる値が一致しない場合にはうまくいきません。(多分)

 

見方を変えると面白いだけでなく、どうしてその方法が好まれないのかもわかります。

 

 

……と、きれいにオチがついたところで終わればよいのですが、このままだとただの数学の話になるのでもう少し考えてみます。

 

新しい認知の枠組みを手に入れることで、世界の見方が変わるというのは学ぶ喜びの中でも大きなものでしょう。

それは、広い意味で新しい「言葉」を手に入れることともいえると思います。

 

国語は、教科書の内容を教えるのではなく、教科書の内容を使って考え方を学ぶ教科です。(だからこそ、教科書の文章の全てを扱わなくても許容されます、高校では)

とはいえ、読んで考えることで、何かを発見したり感動したりすればこそ、考えるということに前向きになるはずです。だからこそ、読んで面白かったり納得したりするものに出会ってほしいわけですが、真の意味で出会うのはそう簡単ではありません。

山月記を高校生のころ読んで何か考えた記憶はあまり残っていませんが、昨年読み直してみると意外にも刺さる部分が多くびっくりしました。

潜在的な面白さをどの作品も秘めているからこそ、教科書に載っていたり、出版され愛読されていたりするわけですが、それをどんなに工夫して伝えても、アクティブ・ラーニングで主体的に取り組ませても限界はあるでしょう。(もちろん効果はあるでしょうが)

そうなると、限られた学校教育の期間ではそこを目指しつつも、「いつの日か」のために読み方を練習しておくか、少し本質的なところからは外れるけれどとにかく嫌いにさせないために他の要素を取り入れるか、どんな人でも面白さを理解できるような授業を目指すかという選択肢の中で揺れ動きながら授業を作っていくことになるのでしょうか。

 

「見方を変える」とか「考え方が更新される」ということは言うのは簡単だし、自分の体験としては該当しそうなものはありますが、人それぞれにトリガーは違って当たり前だし、学校でそのすべてをカバーできるとは思わない方が健全でしょう。

そうは自制しつつも、生徒が何か根本的なことに気付いてくれたらそれはうれしいことだろうなあと思うのでした。