21/01/24 共通テスト国語を見てみて

こんにちは。

 

先週末には第1回共通テストがありました。ただでさえ1回目なのに、春先からの休校期間や大会中止、冬になってからの緊急事態宣言や大雪で特に高3の受験生にとっては大変な試験だったかと思います。

 

国語の問題を眺めてみましたが、複数の文章から考えたり、与えられた批評とは異なる視点で評価したりと面白いものになっていると感じます。ただ、これを材料はすべて与えられており、選択肢から選ぶ形式で、しかも時間制限がついているとなれば面白がっている場合でもないでしょう。なんかもったいない気がしてしまいます。

 

一つには、高校の授業スタイルへの明確なメッセージと捉えることができると思います。学習指導要領が全面改訂となるのは来年の春からですが、高校現場にかけられているプレッシャーは強いものなのではないでしょうか。

 

(余談にはなりますが、お世話になっている商業高校では受験者が2ケタ行かないぐらい?ということで、別に話題にもならないというような噂を聞きました。これはある意味大事な視点で、文部科学省その他の「中央」の人が、センター試験を共通テストにリニューアルして問題形式を変えれば全国的に効果が出ると思っているのならその見通しには疑問が残ります。)

 

それとは別に感じたことがありました。こちらは、共通テストに限らないのですが、国語のテストで制限時間があって持ち込みができないのってどうしてなのでしょうか。(そもそもテストをする科目か?という問いも重要ですが)

 

文章を読む速度がある程度必要なのは確かで、その中で正確に情報を読み取ることも大事なことでしょう。ただ、そのように読まなくてはいけない文章ではない文章もたくさんあるでしょうし、小説や古典はその典型だと思います。

 

辞書に関して言えば、古典を辞書や注釈書を引かずに読むということを、実生活で求められることは全くないでしょうし、むしろそうすべきものでもないしょう。

 

そう考えると、古典がテストの教科として存在する理由は、「必要があるかわからないものでもとりあえず覚えて、本番に発揮する」能力を測定するためなのではと邪推したくもなります。

 

自分自身が、古典は割とそのようなものと捉え、受験のために勉強していた面があるので、現場に出るまでにちゃんと芯を持てるようにしたいです。

 

 

そんなことを考えながら、総じて言えば、「面白い試み」どまりでこの国語のテストができる・できないが何を意味するのか納得できないものでした。(とはいえ、多分、これは性格的なものやテストや入試制度そのものへの感情があったりするので、どんな出来でも、完全に納得は行かないと言うと思いますが)

 

今は、自由に他人事として上から目線で批評し放題ですが、教員として生徒にテストで○○点取らないといけないんですと言われたら、困っちゃうと思うので、なんとか折り合いをつけたいですね。