2020/11/22 あるオープンチャットから思ったこと

こんにちは。

LINEのオープンチャットという機能があります。誰でも参加できるLINEグループみたいな感じのものです。(設定次第で承認制にできるのかもしれませんがよくわかりません)Twitterでたまたま見かけた「八神の国語相談室」というオープンチャットに私も参加しています。発言などはせず見ているだけですが、国語で困っている学生生徒や教員が交流する場でどういう関心や悩みを持っているのか観察しています。

【 八神の国語相談室】 - オープンチャット検索のコチャマ

 

オープンチャットでは、それぞれが自分で勝手にハンドルネームをつけて、発言できるので、本名も知らない、顔も知らない誰かと誰かのやり取りを見ることができます。SNSが浸透してきているので当たり前と思う人はいそうですが、私にとってFacebookやLINEは知っている人とつながることがメインのツールですし、Twitterは知らない相手をフォローすることもありますが、誰かと話すというよりは勝手に垂れ流すという使い方しかしないので、オープンチャットのように本当に素性の分からない相手とそこそこ真面目な話をするというのは面白いような恐ろしいような話です。

 

それはさておき、件の「国語相談室」にはあるルールがあります。それは、学校の課題やテストなどの問題の答えだけを聞くような質問は受け付けず、一緒に考えるということです。理念自体はよくわかりますし共感します。魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えるという喩えがよく使われるように、その問題が出来るようになるかよりも、その問題から何を学ぶかということの方が大事なのはおそらく正しいでしょう。

そんな状況で、先日大変場が盛り上がる出来事がありました。高校生と思われる人が文章と問題(選択式・五択)を示して教えを乞うたところ、色々な人がヒントを出したり、問答をしたりする事態になっていました。「おほやけに奉る物」の解釈が一番の争点で、奉るが謙譲語か尊敬語か、「に」はどう取ればよいかといった点を辞書の記述や、文章全体の流れなど様々な角度から考えていました。

傍観者としては勉強になるなあというぐらいでしたが、質問をした生徒にとっては、どうだったのか心配になりました。(まあ杞憂だったらいいのですが)

 

その生徒は見る限り、ちゃんと考えた上で質問しており、「考えたけど分からないから質問しているのに、ボンヤリとしたヒントだけ言われて結局どういうことなのかはっきり言ってくれない、意地悪されている?」と思ってもおかしくないのではと想像してしまい、直接的に教えず考えさせることの難しさを感じました。文字だけでやり取りをしなくてはいけないことの難しさもあり、この経験を通して、古典を面白いものと思うよりは難しくてわからないものと思ってしまいそうでした。

一応断っておくと質問者側・回答者側のどちらかが悪いとか、このシステムの欠陥だとか主張したいわけではありません。

 

自分で悩みモヤモヤを抱えながら調べたり考え続けたりして自分なりの結論を探していくことはとても大事ですし、教科教育は間接的にそのような能力も育成していると考えているぐらいなので、なんでもかんでも「わかりやすく」解説するのは、毒にしかならないと思いますが、やはりハードルの高さは十分意識しておくべきだと思います。

 

ご丁寧に、小さい階段をたくさん設けたり、あるいはもう逆に大雑把に、シンプルに言い切ってしまったりしてつまづかないようにしてあげるという手も場合によってはありでしょう。しかし一方で、人と人との関係がしっかり築かれていることで難しさに抗う、もがくときの命綱になることもあるではないかとも思います。

それは、学習者同士もあるかもしれませんが、指導者との関係という場合もかなりあると思います。あの人が言うのだから、頑張って考えたり調べたりすれば面白いことにたどり着けるだろうという信頼のように、教科への取組みと教師への好意は無関係ではないように思われます。(ただ調査しにくい)

参考書もたくさん出版されていて、インターネットにも大量に情報が出回っている現代に、学校で授業を受ける意味はまだなくなってはいないはずです。それが全員に対して必要なのか、有効なのかというと必ずしもそうではないので、選択肢が増えることはよいことです。ただ、良い教師は、授業の上手さ・わかりやすさだけではないのだろうなということです。

結論はありきたりなことになってしまいました。しかも、曖昧で主観的。引き続き色々考えていこうと思います。